福島第一原発の処理水をめぐって中国からの迷惑電話が相次ぐ
金曜日から始まった迷惑電話攻撃が、実はまだまだ続いております…
— 自家製麺うろた(夜はくをん) (@urota1231) August 27, 2023
3日間電話線抜きっぱなしの状態です
しかし、こんな妨害には屈せず、今日も明日も美味しいラーメンを全力で作ります!
電話は繋がりませんが通常通り営業しております!
ご来店お待ちしております!! pic.twitter.com/6VUOg8BcS1
福島県をはじめ、各地の飲食店や公共施設などに
中国の国番号「86」で始まる迷惑電話が相次いでいることを受け、
警察当局は、電話の内容やどこにかけられているかなどの
情報収集を急ぐとともに、被害届が出された場合には、
威力業務妨害などの容疑で捜査していく方針です。
福島市危機管理室によると、4日間にあった770件の不審電話のうち
「市役所・出先機関」に計584件、「学校・公共施設」には186件で、
市内の公立小中学校にも75件の着信があった。
電話に出ると「もしもし」「こんにちは」などと片言の日本語を話した後、
中国語などの音声が流れたり、
中国語と思われる言語で一方的に話して切れたりするケースが大半。
中国語ができる職員が偶然、電話にでると
「処理水を何でみんなの海に流すのか」という意味の中国語を話していたという。
通話の背後で笑い声がしたこともあった。
参考 中国からの迷惑電話の様子
国際電話不取扱受付センターへの申し込みで国際電話の停止も可能
国際電話の発着信を停止したい場合:
— ktgohan (@ktgohan) August 28, 2023
国際電話を扱う各社が共同で「国際電話不取扱受付センター」を運営しています。0120-210-364 (平日9時~17時)へ、その電話回線のご契約者様本人が連絡をして「不取扱」の申込をすることで国際電話の発信・着信を停止できます。手続きに料金はかかりません。
注意点:
— ktgohan (@ktgohan) August 28, 2023
・「国際電話不取扱受付センター」が受け付けられるのは、基本的にNTT東日本・西日本の固定電話のみです。携帯電話はこのセンターでは取り扱えません。
・050ではじまる電話番号も同じく取り扱えません。
・発信のみ停止、着信のみ停止はできません。発着信両方が止まります。
注意点2:
— ktgohan (@ktgohan) August 28, 2023
・国際電話不取扱の申し込みをすると、例外的に「日本国内の一部の携帯電話」からの着信ができなくなることがあります。これは主に「格安SIMの通話アプリ」を用いると、仕組みの上で発着信が海外経由になるため「国際電話の着信扱い」になることが理由です。これはあきらめてください。
「六四天安門事件」「台湾独立万歳」と叫ぶと有効と話題
画像引用元:https://pbs.twimg.com/media/F4kREAWboAAJMOz?format=jpg&name=large
中国の迷惑電話撃退方法として「天安門事件」や「台湾独立」そして「チベット・ウイグル問題」を電話口で語ると効果的なのは、中国政府にとって触れちゃいけない問題であり、そのワードをつかって話をしている事がバレると反政府分子と見なされて中国公安警察に察知されて連行されるみたいやで
— スカーレッ(@kemono_fm192hz) August 28, 2023
ほぼ一撃で中国からの迷惑電話を遮断する言葉(中国語での発音付き)を書いておきました。
— スカーレッドG (@kemono_fm192hz) August 28, 2023
この発音で相手に喋ると、ほぼほぼ確実に黙りますし、相手が中国公安当局から目を付けられたくないので、一発で切って黙ります。
嫌がらせ目的で電話をしてくる恥知らずな相手にはこれで発音を返そう! pic.twitter.com/gLmSrBMWES
中国からの迷惑電話には
— (@BeChart6uI) August 28, 2023
ハオジョウブジェン!タイワンドゥーリ ミェン!
(お久しぶりです!台湾独立の同志よ!)
とか機会合成音でいいですから用意しておいて受話器口に流してやれば発信者は血相変えて電話を切ります
六四天安門事件について
六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)は、
1989年6月4日(日曜日)に中華人民共和国・北京市にある天安門広場に
民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、
軍隊が武力行使し、多数の死傷者を出した事件。
衝突のあと、中国共産党当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、
外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。
戒厳令布告に反対した趙紫陽は、総書記ほか全役職を解任され、
2005年に死去するまで、自宅軟禁下に置かれた。